鉄瓶と鉄、この魔性の魅力
文 :NIPPON PROUD 森口 潔
協力:ロジアソシエイツ
鉄の魅力、そしてその歴史とは
元素記号はFe、太陽や他の天体にも豊富に存在し、私たちの周りに当たり前のようにして存在する金属の「鉄」。 製鉄の歴史はと言えば、今を遡ることおよそ4000年前のヒッタイト(現在のトルコ周辺)で生まれたという説が有力なようだ。そして我が国にその技術を伝えたといわれる中国ではおよそ3000年前にはすでに製鉄は始まっていたようだ。 日本はその当時は縄文時代の後期だというから鉄とは随分と長い付き合いになる。
そして日本には、朝鮮半島を経て3世紀くらいに伝わったとされるが、本格的な製鉄は5~6世紀にはじまり、ここに日本独自の「たたら製鉄」がスタートしたという事らしい。 この製法によって信じがたいほど切れるのに、折れずに曲がらない日本刀が出来るわけである。 刀が持つ神秘的な美しさは、長い歴史と伝統に育まれた刀剣の持つ物語性、そして日本刀に込められた日本人の精神性や美意識の象徴と言ってもいいのではないか。 タランティーノ監督の映画「キルビル/KILL BILL」 の中に登場する「ハンゾー・ソード」を持ち出すべくもなく欧米人の眼にもこのミステリアスで妖しい美しさは、魅力的に映るのだろう。
南部鉄器の過去現在そしてこれから
そんな鉄素材を使った素晴らしいプロダクトが南部鉄器だ。 南部鉄器は、岩手県南部藩の茶道を推奨していた藩主が1659年(万治2年)に京都から釜師の初代小泉仁左衛門を呼び寄せて、城下町で湯釜を作らせるようになったことから始まったといわれている。 現在も岩手県の盛岡と奥州水沢が南部鉄器の二大産地として有名だ。 明治維新により南部藩の後ろ盾がなくなり衰退、第二次世界大戦の戦時下には鉄は軍需以外に製造されなくなりまた衰退、戦後はアルミニウム素材に押されて衰退と、何度も憂き目に会いながらも辛抱強く蘇っている。
現在は、茶道具としての需要や、その伝統的な芸術性から海外への輸出が増えるなど、評価されてはいる。 しかし大量の中国製の模倣品の流出や製造者の高齢化、後継者不足、過酷な作業現場、さらには昨今の電気代や石油の高騰が追い打ちをかけて業界自体はとても厳しい状態だという。
そんな鉄器の将来を示唆するような、ひとつの鉄器作家のストーリーがある。 昔からの南部鉄器製造業を営んでいた家に生まれた彼は、伝統工芸にありがちな保守的で、明るい未来も期待できないと思えた家業を嫌ってデザインの世界に入る。 そんな折、とある百貨店で「南部鉄器祭り」なる催しを目にしたときにその扱われ方に彼は愕然とする。 乱雑に山と積まれた鉄瓶や鉄鍋の、販売側のリスペクトのかけらもなく哀れな姿。 確かに時代の流れには乗り遅れているとは思いながらも、その存在を否定していたわけではない。 親しい人たちの努力や勤勉な姿も踏みにじられたように思えた彼は意を決して、そもそもの自らのルーツに戻る。 伝統を守りながらも自分の感性で、斬新な作品も含めて作品を発表する鉄器作家となった。 家業を継ぐというより、家業を自己表現の一環として「活かし」たのだ。 伝統工芸が今後もその正統を繋いでゆく一つの解になり得るのではと私は思うのだが。
鉄瓶のメリット、デメリットって?
鉄瓶を使用した時のメリットをステレオタイプの答えで言うなら鉄分が摂れて、白湯が旨いという事になるだろう。 サッカーの森保ジャパンの田中 碧がドイツまで奥州市の鉄瓶を持参して、毎日鉄分の補給をしていることで南部鉄器業界がざわついたことは記憶に新しい。 体内に吸収されやすい「ヘム鉄」は、シジミやレバーに含まれるものだが、鉄瓶を使うと割と容易に鉄分を摂取することが出来る。 鉄瓶で沸かしたお湯には鉄分が溶け出し、そして塩素を取り除き、さらには使うほどに鉄瓶に溜まっていくミネラル分がお湯に溶け出し、口当たりをまろやかにしてくれるとも言われている。 なんとも頼りになる優等生ではないか。
そして最大のメリットは、その造形美と素材の持つ存在感だと私は思う。 食卓に置いても、キッチンに置いても、慥かで揺るぎない風格を見せてくれる。 長い時間をかけて暮らしの中で醸成されてきた伝統の重みなのだろうか、他の民藝の産品と同じく古びないモダンな姿で現代の空間のスパイスになってくれる。
逆にデメリットを上げると、「重い」「熱い」「手間がかかる」の3点が一般的な声だろううか。 重量は種類により1Kg~3Kgはあるが、大体大きめの弦(つる・取手)が持ちやすくしてくれるので、さほど感じないのではと私は思うが(もちろん個人差あり)。 ただし箸より重いものを持ったことのないお嬢様にはとてつもなく重荷だろう。 「熱い」というのも熱伝導と蓄熱性に優 れていることの証しだから、蓋を落としたりしないなどの取り扱いに注意は必要だけど、さしたる問題ではないように思う。 最後の「手間」の問題だが、鉄製品は全般的に、手間がかかるイメージがあって鉄瓶も基本的には例外ではない。 鉄瓶は鉄のフライパンなどのように毎度油を塗る必要などはないが、使用後に毎回しっかり水分を飛ばしてサビを予防することが必須だし、もし湯に赤サビが出るような状態になればそれを取り除く事も必要にはなってくる。 少なからず時間に追われずに、余裕をもって人生を楽しもうという気持ちがないと難しいかもしれない。 今で言うスローライフの実践だ。
スローライフのすすめ?
今の時代は、何でも情報は先取りして、早く効率よくインプットしておこうという空気だ。 乗り遅れると取り残されるのではとの強迫観念にかられて、それが行き過ぎると病気だと診断されることもあるという。 目覚ましい進化を遂げてきたとも言われるが、果たしてそれが人の暮らしを本当の意味で豊かに、幸せにしてきたのだろうか。
私が育った時代、昭和30年代は高度成長期に差し掛かっていたものの、まだいたってのんびりとしたちょうど「サザエさん」の家族が暮らしているような世界だった。 割と町なかにいたにも関わらず、母は毎日糠漬けをつくり、冬には手を真っ赤にしながら白菜漬けやたくわんを作っていた。 春には梅酒を作り、イカの塩辛も手作り。 とっても素朴でどれもこの上なく美味しかったのだけれど、そろそろ色気づいてきた少年の私は「そんなの店で売っているんだから、そこで買えばいいじゃん」と言い放っていた。 何か時間をかけて無心に作業をしている母を多少蔑みながら同時に母を恥ずかしいと思ったこともある。 なんという罰当たり!なんという浅はかさ!だったのだろう。 ゆっくりと時間も愛情もかけて与えてくれた滋味深いこれらの味の記憶は、しっかりと今の私にも刻まれている。 この時の母がタイムスリップして現代にきて「おふくろの知恵袋」的な内容のユーチューバーになっていたら結構なかずのチャンネル登録者を得られただろう。
タイパだの時短などとばかり言わずに、いつもの超特急ではなくて時には鈍行に乗ってみる。すると見える景色も変わり、新しい発見や喜びにも出会える。こともあるだろう。 だいぶ遠回りしたが、鉄瓶はそんなゆったりとした悠然で丁寧な暮らしを引き寄せることの出来る文字どうり美しい日用品なのではないだろうか。